Château d'Angers
2, promenade du Bout du Monde,49100,AngersTél : 02 41 86 48 77
アンジュー帝国、フランス王権争いの中心となった城
ガロ・ロマン時代に3世紀の終わりから城塞都市として存在した場所に、9世紀の中頃にアンジュー公が住居として使い出してからは、アンジェ城はフランスの王権争いの中心地となりました。1154年にイングランド王となったプランタジネット家ヘンリ2世がロンドンと同じ頻度でアンジェに宮廷を開催し、彼やRichard
Coeur de Lion(リチャード獅子王)の治世の下、アンジェはイングランド王国の首都になったり、12世紀にはPhilippe
Auguste(フィリップ・オーギュスト) が複数回にわたってアンジュー伯の領地を奪い取りフランスの王権を巡る争いが続きました。
北西の位置に建てられていた宮殿は11世紀~12世紀に増築され、その遺跡から約40メートルにも渡る広さの部屋や、最も小さい射撃用の部屋、Saint-Laud(サン・ラウド)を守護聖人と仰ぐチャペル、
d'une l'abbaye de Fontevraud(フォントブロー大聖堂)と同じタイプの台所などの跡も見ることができます。
アンジュー伯の要塞は5万平方メートルにも及んでいたものでした。
saint Louis(聖王ルイ9世)は1232年~1240年頃に大規模な工事を行い、壁は約3メートルの厚さで、延長952メートル、面積25000平方の広さで建築様式としてはシンプルなものでしたが、北西側はメール河に垂直に落ちており、あらゆる襲撃をも防ぐことができる、アンジュー帝国でも最高の要塞となりました。直径18mの17の円塔はこの時代に建てられたものです。
1402年にはLouis
II(ルイ2世) と Yolande d'Aragon(ヨーランド・ダラゴン)のが城に住居を構え、サン・ラウドの礼拝堂の代わりにヴォールト天井の3つの柱から構成される新しい礼拝堂を建てさせました。
立派な小礼拝堂は暖炉で暖をとることができるようになっており、礼拝堂の石造りの扉は伯爵家が使用していた事務所へと繋がっています。その後アンジュー家の3台目となる、René(アンジュー公ルネ)の時代には特に芸術分野において最盛期でした。
1453年、 René(アンジュー公ルネ)は新たな居館を建てさせ、礼拝堂の近くにギャラリーを創りました。 このギャラリーは既にあった居館とは繋がってはいませんでしたが、プロヴァンスの伯爵領から取り寄せた花や木、バルバリー地方(北アフリカ)からはあらゆる種類の動物を連れてきて作った大規模な庭と動物園を望むことができ、城から素晴らしい景色を望むことができるようになっていました。
1480年にRené(アンジュー公ルネ)が跡継ぎ無しに亡くなったことで、アンジェ城はLouis XI(ルイ6世)の領地となり、 司令官であったJean Bourré(ジャン・ブーレ)が管理するようになりました。
16世紀の終わり頃ヘンリ3世はアンジェ城の要塞を取り壊すように命令を下しましたが最高司令官の Donadieu de Puycharic(ドナデュー・デュ・ピュイシャリック)は取り壊すように見せかけて17の塔の高さを12mほど削り、大砲台を構え削った石で城壁の下部を強化することで、更に強固な城へと作り変えました。
フランスに現存するものでは最古といわれる、ヨハネの黙示録が描かれたタペストリー
王の住居であった建物内では、王による15,16世紀時代のタピスリーコレクションをみることができます。4枚から構成され、宗教画をモデルにした"tenture
de la Passion"(「情熱のタピスリー」)や、 "tapisseries mille-fleurs"(「千の花々のタピスリー」)はコレクションの中でも特に有名なものです。
また、「黙示録のギャラリー」では中世期最大の有名なタピスリー"Tenture de l’Apocalypse"(「黙示録のタピスリー」)があります。これは建築や芸術に熱心だったLouis Ier d'Anjou(アンジュー公ルイ)が 制作を命じたものです。1373年から十年間かけて織られ、オリジナルは7枚、大きさは高さ6m、長さ133m(107,5m分が現存)。福音書家・聖ヨハネの神秘的な書物を物語っています。