15世紀まで王家にとって最も重要な場所の一つだった城
10世紀の頃にブロワ伯Eudes 1er(ユード1世)がアンジュー公Foulques Nerra(フルク・ネラ)の攻撃から守るために建てた要塞がショーモン城の始まりで、もともとは戦闘用のお城でした。12世紀からアンボワーズ家の所有地となってからは、15世紀まで王家にとって最も重要な場所の一つとなりました。
しかし、1466年に古い要塞を再構築することがピエール・ド・アンボワーズ(l'évêque Pierre d'Amboise)により決定され、1473年からはアンボワーズのシャルル1世(Charles
Ier)工事を引き継ぎ1481年まで続けられましたが、彼の死後、8歳のシャルル2世(Charles II)が引き継ぎましたが、その後
多くの建物が整理され 、特に中世時代の要塞として使われた建物はほとんど残っていません。
カトリーヌ・ド・メディシスがシュノンソー城奪回の為に購入
15世紀の終わりに 工事は再開され、シャルル2世はベリー地域でも最も素晴らしいお城へと築きあげましたが、アンリ2世の死後、妻のCatherine
de Médicis(カトリーヌ・ド・メディシス)が城を買い取り、シュノンソー城に住んできたアンリ2世の愛人Diane
de Poitiers (ディアヌ・ド・ポワティエ)を追い出して、ショーモン城に住まわせました。これは美しいシュノンソーを取り戻すためだったと言われています。
ディアンヌ・ド・ポワティエは、ショーモン城の工事にとりかかり、巡回路、狭間、石落しなどを修復し、彼女の頭文字の組み合わせと紋章で飾らせましたが、1566年に彼女が亡くるまでの間に南翼の工事は完成できず、 その完成しなかった部分の工事が再開されるのは18世紀に入ってからのことで、同時期に北翼の部分はロワール河渓谷の見晴らしをよくする為に壊されました。
19世紀の初めには、ナポレオンにより亡命を命じられたMadame de Staël(スタール夫人、フランスの偉大な批評家・小説家の一人、フェミニズムの先駆者)がパリから身を移し、しばらく滞在してた場所でもあります。1810年の作品、"L'Allemegne"『ドイツ論』の中では、ショーモン城での滞在に関して言及しています。
豪華な城へと変貌した19世紀
1875年からは大富豪である精糖業者の2人娘のうちの1人、Mlle Say(マドモアゼル・セイ)がBroglie家と婚姻関係を結んだ際に城を購入しましたが、贅沢好きで有名で財の限りをつくしてショーモン城を豪華な館に改造させて、毎日のように饗宴を開いていましたが、1929年に彼女の破産後、1938年に国が17へクタールの庭園と城を買い取りました。
そいいった理由から外観は、装飾が少なく多少質素なイメージですが、城内では、美しいタピスリーや、16・17世紀の調度品、あるいは18世紀の有名イタリア人アーティストNiniによる、当時の有名人の肖像画が彫られたテラコッタ製メダルのコレクションを見ることが出来ます。また、Catherine de Medicis(カトリーヌ・ド・メディシス)や、Diane de Poitiers(ディヌ・ド・ポワティエ)らの部屋も残っています。